中平卓馬 - なぜ植物図鑑か
- Date:
- 2008-04-19
- Category:
- 01_PHOTOGRAPH
いままでに買って読まずにおいた本を読む。今回は《リキエスタ》の会より2001年に発行された「中平卓馬の写真論」より、「なぜ植物図鑑か」を読む。
著者は言わずとしれた著名な写真家、中平卓馬。僕が彼を知り得たのはホンマタカシによる「きわめてよいふうけい」がきっかけであったが、運のよいのは過去の評論が再編版として出版されていて、人づてではなくじかにその中身に触れることができたということ。日本の写真史に名を残す写真家の、あまりに有名な評論であるので、その中身にたいして軽々しく言及することなど出来はしないから、あくまで個人として気になった点を要点として挙げておくことにする。
評論の概要については、wikipediaに掲載されているものがわかりやすい。以下引用。
雑誌『美術手帖』1972年8−9月合併号に掲載された吉川知生の投書に中平卓馬が応えるもので、評論というよりは彼のそれまでの写真作品からの訣別、そして新たな作品への意思表示であるといえる。
投書というのは、中平の写真から詩的なものが失われていることに対しての批判であった。そしてのこの評論はその投書の内容を受けたうえで、われわれが詩と呼び慣わしているものとは何なのか
という切り口からはじまり、それは私が世界はかくかくである、世界はこうあらねばならないと予め思い込み、そうきめこんでいる像のことなのではないだろうか。
とし、世界そのものをあるがままあらしめることを拒否する私の一方的な思い上り
とまとめられている。
著者自身がそれまで撮ってきた写真の要素として、モノクロ写真であること、荒い粒子や意図的なブレを好んで用いたこと、夜の風景を被写体として選んだことを挙げているが、これらをして自ら作家があらかじめもつ、世界はこうであるという像の世界への逆投影
と批評している。
「世界はこうであるという像の世界への逆投影」、これは「世界」と「作家」とが完全に対等でおらず、「世界」が「作家」のなかに内包されてしまっている状態を指す。世界のなかにおいて個人は混在する複数の点のうちの一点に過ぎないことは自明であるけれど、作家の創作物のなかではその優先順位が逆転してしまっているのだ。これはまさにセカイ系じゃないか。
現在見られるセカイ系への批判、あくまで「ぼくときみ」の背景として存在する世界の、あまりにチープな描かれ方により、結果創作物そのものが広がりを見せず収縮してしまという批判は、中平のそれと似ているように思えた。サブカルチャー界においてゼロ年代以後に生まれたセカイ系という言葉だが、それが過去に発表された写真の評論と繋がるというのもおもしろい。
この文章が書かれて30年余、作家の持つイメージの世界への逆投影はいまだ多くの人間が行っていることのように思う。はるか昔に書かれた中平の文書が今もまだ色褪せて見えないのは、後進の人間によって十分に実践されていないことによるのかもしれない。しかし30年という時間は親子の世代がひとつ繰り下がるくらいの年月でしかないから、まだまだ時間は必要なのかもしれない。非経済的な個人の活動においてもそれがヒントになるのであれば、その実践を図るのが僕の仕事だと考える。
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