写真空間Ⅰ - 観光する写真家

投稿日 :
2008.4.30
カテゴリ :
01_PHOTOGRAPH

青弓社から刊行されている「写真空間Ⅰ」という写真誌を読んでいる。内容は複数の章にわけられており、そのうちのひとつ「観光する写真家」の中身が興味深かったのでメモしておく。

その表題どおり、観光旅行における写真の意味合いを探った内容になっているが、写真そのものよりも観光のルーツや行動の意味についての言及に惹かれた。以下、本文より引用。

巡礼や商用などに代表される前近代以来の旅(travel)がおもに何かを「する」ための旅であったのに対し、近代の観光(toursim)とは、メディアに用意された何かを「視る」ための旅である。
複製技術革命と交通技術の進歩を受けて、受動的な「擬似イヴェント(Pseudo-event)」を楽しむ観光者が登場したという。その結果、旅行は、「一つの活動-経験・仕事-ではなくなり、その代わりに一つの商品になった」

社会人が「長期休暇を取った」と他人に話すと、返ってくる反応は容易に想像できる。「どこか旅行にでも行くんですか?」この社交辞令にも似た慣例は何に起因しているのか、また実際に長期休暇を取って観光に出掛ける人間が現地で何をしてくるのか、これまでずっと疑問に思ってきた。大概の人間は旅行から帰ってきても、他人に話せるような特異なエピソードを持ち得ていない。誰もが知っている観光地の話を、いくつかの写真を手にしてただ話すだけだ。僕はこれまで、彼らのその行為について合点がいかなかった。高い金を浪費してまで出掛けた旅行で何の経験もしないのは何故か理解ができなかった。それは先に挙げた引用元から察するところ、僕が旅行は現地で何かを「する」ために行くものだと思っていたのに対して、彼らが旅行をすること自体を目的にしていたという差があって、さらにその差にお互いが気付いていなかったためだと考えた。

19世紀後半のヨーロッパ、写真の大衆化と鉄道の整備によって、観光産業は発展する。旅行者は鉄道により長距離を短時間で移動して、その先で写真を撮り持ち帰る。本のなかでは、鉄道の車両の中から眺めた瞬時に飛び去る景観、それを視る人間の新しい空間認識の仕方を「パノラマ的視覚」と言い、また旅先での写真撮影とそれによる景観の収集を「アーカイブ・カタログ化」と言っている。その興味と行動について理解するのは容易い。

さて、現代である。19世紀末の鉄道は、21世紀初頭ではインターネットに置き換わった。google mapなどはその最たる例だろう。web上で視覚的な情報や歴史的な背景を収集できるようになった今、もはや距離を移動する意味合いは薄れた。その場所に実際に行き体感することは、想像力で補える時代になった、そう言う人間もいる。毎度おなじみ漫画家の香山哲さんである。以下のページでその話を聴くことができる。

ゾーマゾーマのナゾナゾーン : 016 森君との海外旅行批判前編
http://www.voiceblog.jp/zormazorma/161656.html
ゾーマゾーマのナゾナゾーン : 017 森君との海外旅行批判後編
http://www.voiceblog.jp/zormazorma/161657.html

この話の内容については概ね同意できる。とくに旅行にかかる実費のみならず、旅行にかかる時間と人間の労働対価についても考えたほうがよいという点は興味深かった。意味がないならゼロだけれど、労働しないという意味ではその分マイナスである。

インターネットの登場で意味の薄れた行為は多い。写真もそのひとつのように思える。100年前から行われてきた観光写真の撮影は既に充足したろう。高い金を消費してパッケージとしての旅行をするなら、そこで写真を撮るなら、これまでのとおりガイドブックに既に掲載されているような写真をまた撮り直すといった行為は、いい加減終わりにしないとしょうがないような気がしている。そのかわりになるような行為があるか?それを考えるなら、実空間を介さない写真の表現方法を考えた方がまだ時間を有効に使えそうだ。

つまりは、想像力の点から言っても、写真史から得た訓示という意味で言っても、旅行はもうしないほうがいいという結論である。

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