天空の美術 - 東京国立近代美術館
- 投稿日 :
- 2007.12.16
- カテゴリ :
- 01_PHOTOGRAPH
国立近代美術館へ、天空の美術を観に行く。ウジェーヌ・アジェのプリントが展示されているというので、それを観に行くのが目的だった。しかしそれ以外にも目に留まる展示物が多々あり、個人的に収穫の多い催しだったように思う。気になった展示物は以下。
1911年の日蝕 - ウジェーヌ・アジェ
日蝕を眺め、空を見上げる人々を撮影している。場所はやはりパリなのだろうか。100年前の撮影ということで露光時間が長いのか、撮影された人物達は微妙にブレており、構図も平坦であるが、問題はそこではない様子。100年前のプリント、という最低限の要素にプラスアルファして、この写真が展示されている意味を追ったが僕個人では考えが及ばす、パンフレットを見て納得。中にはこうある、以下引用。
アジェの写真では、全員が左上を向いている。彼らが見ているものは、今度もまた視線の先、画面の外にあって直接には示されない。鉄柱のかげに、ひとりだけカメラの方、つまりこちらを向いている少女がいる。距離の彼方を見るひとびとと、100年後のオーディエンスがいる、時間の彼方を見ている少女。
要点は、撮影されたなかで一人だけ視点のずれている少女か。写真内と、それを見る僕らを同列に捉えて、100年という時間の差異を同じところまで引き込んでいるのも興味深かったが、実際に展示を見ていた際に何一つ解釈ができなかったというのが悔しい。
'moon' score(月の譜) - 野村仁
5本線を写しこんだフィルムで、月を撮影し、それを並べている写真作品。月はそれぞれ満ち欠けや位置が異なって撮影されているが、位置が異なるのは軌道のためではなく、撮影者が手持ち撮影をしているために自身の鼓動や歩く振動によってブレているためだという。
この月の譜は実際に音楽に変換されて、CDに焼かれ、演奏もされているらしいが、それを今回の展示で聞くことは出来なかった。
興味深いのはその試み自体で、写真という視覚情報を聴覚のみの情報である音楽に置き換えようとしていること。以前僕個人のブログで画像データのピクセル毎のRGB値を認識してMIDIに変換するアプリを取り上げたことがあったが、それに近いものを感じる。ただ、この月の譜が作成されたのは30年も前のことであって、僕らがいまさらそのおさらいをしているのでは遅いなと考えた。
自然に存在する月と撮影者の肉体という二つの要素の融合によって音楽を作り出しているわけで、そこに幻想性を見出すこともできるけれども、僕はその行為に対しては、実験的要素以外の目的や価値を見出さず、これ自体そこまでで完結しているものだと捉えた。しかし一緒に見に行った友人は、実験の先に何があるのかが不明であること、または目的がないのであったら、それは納得いかないと話していた。この同じ作品に対する感じ方の違いも面白い。
ハート・クレインへの手紙 - アルフレッド・スティーグリッツ
空の定点観測を行い、その写真を撮影した作者が、手紙の中で述べていた言葉が、写真と並列にキャプションとして提示されていた。80年以上も前に写真を表現手法として利用してた人間の言葉としては、先進的に思えた。以下がそのキャプションの引用。
今流行のいわゆる抽象なるつまらない表現なんかよりもずっと、これらの写真の「再現描写」には、本当に抽象的なものが含まれている、このこともわかってる。
僕が日頃意識している、写真の限界性について述べられているようで、またそれが80年も前に述べられていたということが興味深い。
ラスト・コスモロジー - 川田喜久治
空、太陽、鳥、水クラゲなどのモノクロプリントの組写真。キャプションもなく、コンセプトを理解できずに帰ってきてしまったのだけれど、写真それぞれが幻想的で印象に残ったので、帰ってきて少しだけ調べてみることにした。
コスモロジーとは「宇宙論」を指す。写真による宇宙論の展開であれば、生物や天体を撮影し捉えることで、地球から見た視点の宇宙の想像を喚起しようとしていたのかもしれない。
この文章を書いていて気付いたのだけれど、クラゲは「海月」と書くんだな。このことも関連していたのだろうか?
絵画 = 空 - 小林正人
これだけ絵画。僕は絵画の基礎についてはまったくの不勉強で理解がなかったが、この作品を見て少しだけ理解を深められたのではと思えた。
水色に塗りたくられただけの絵画。キャプションが添えられており、その内容にショックを受ける。以下引用。
これは空を描いた作品じゃない。つまりそこにある青い空を描いたのじゃなくて、絵画の空をつくろうとしているわけです。つまりそこにある空とはもう一つ別の空。
僕はこれまで、絵画も写真も、複写の手法として捉えていたのだけれど、そうではないと。このキャプションによって僕は、絵画はそこにあるものの複写ではなく、これまで存在しなかったものをゼロから作り出すための手法である、と認識できた。これは写真のそれとはまったく異なる。写真は現実にあるものに対して再現性が非常に高いため、そこに写るものは現実にあるものとして捉えられる限界性がある。
一緒に行った友人からすれば、その友人はグラフィックを勉強しているのだけど、上に挙げた絵画の手法としての考え方は基礎的且つ一般的なものだという。よくよく考えれば気付きそうなものだが、写真をやっている手前盲目になっていたのかもしれない。楽しみ方を覚えた、というところか。
こんなところだろうか。催しは来週で終わる、ギリギリ間に合ってよかった。
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