写真作品と撮影者の感情について

投稿日 :
2007.9.08
カテゴリ :
01_PHOTOGRAPH

水道橋のギャラリーで12時から15時まで雑談。写真を作品にまで押し上げるには、撮影者の感情が含まれていないといけない、という話題が挙がった。

僕は、撮影者の感情や思念のようなものは写真に投下されるわけがないと考えている。僕は、モノというのはそれ自体がもつ意味以外に、それの置かれている環境と混ざり合って真の存在が成り立つものだと考えているから、環境の切断を半ば強制的に行なう写真という媒体においては、モノの存在自体完全に表現することが出来ないはずだ、と思っている。人間が自分の感情を他人に伝えようとする場合は、表情、声色、言葉、挙動などで表現するけれど、それも自分と相手が対峙する時間のなかでの変化をもって感じ取れる繊細なものであって、時間を一つ限定してしまう写真においては表現できるものではないと考えている。写真から何かを感じる場合は、それは写真に込められた感情ではなく、閲覧者の感情に過ぎない。写真から感情を受け取ったという捉え方は勘違いである。

写真が作品として成立するその要因は、一見すると無造作に並べられている写真であっても、ひとつのコンセプトによってまとめられているものだと考える。制作者がその意図を論理立てて破綻なく解説できるものであればよい。これはただの僕の持論。

今日の話では、僕の考え方から少し進むかたちで、写真のまとまりが明確なコンセプトを持っていたとしてもそれだけではカタログなどと一緒で個人の作品にまでは到達していない、そこに撮影者の感情が必要なんだ、という内容。じゃあどうすれば感情を込められるんだということになるけれど、どうも理屈で考えるものでもないようなので明確な方法は出ず。なんだかよくわからないままこの話は終了。写真の限界性は知れてるけれど、シャッタースピードいじったり構図変えたりフィルタかけたりライティング変えたり、出来る限りの工夫を凝らして限界性を広げようという試みが大事なんだということにしておく。

人を撮影して、僕がその相手に対して感じているレベルが写真の出来に反映されるというのは実体験としてよくある。これも感情に左右されているということなんだろうか。そうなるとこれは写真の話ではなくて、コミュニケーション方法の話だ??

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