ノーコンセプトはコンセプト足りうるのか

投稿日 :
2007.6.12
カテゴリ :
01_PHOTOGRAPH

日曜日にある人と話をしていて挙がった話題が表題。写真の作品化に関する話題で、別になぞなぞの類ではない。

当然のように携帯にカメラが実装され、デジタル一眼ですら10万円未満で購入できる昨今、写真は化学的な装いをすっかり失くし、誰もがある一定のレベルまでは容易に到達できる環境となった。僕が写真をはじめたのもこの技術的な進歩があったからだ。所謂記録的な意味合いから外れた写真の撮影を行う人口も増えているだろう。

しかし写真を概念から捉えたり、媒体としての限界性や現実との剥離を考慮したり、組写真からコンテキストを生み出したりする努力をしている人口は僅かに思える。ギャラリー単価はディスカウントされ、写真に関する関連書籍も増えた、web上では個人の発言の場は日に日に増えているから、作品を公表する場も多くなってきているが、そういったなかでも前述したような主張や討論を目にすることは稀だ。そしてそういう現状を疎む声も多く聞く。が、そういったノーコンセプトな写真の数々が大多数によって構築されているのであれば、実はそれは既にひとつの文化的な意味合いまで昇華しているのではないか。そういう考え方も出来るのではという話が、今回ここに書く文章の主旨だ。

ノーコンセプトは思案や主張の喪失ではなく、それらの隠蔽であるということか。コンテキストは確かに誕生していて、無くなってはおらず、ただ隠れているのみ。だとすれば、閲覧する僕らは彼らの隠れた主旨を自らの分析と判断で認識しなければならない。与えられた作品を見て、適格な反応を示さなければコミュニケーションは図れず、結果写真は作品として昇華しない。それでは発展は到底望めない。ここで難しいのは作品の主旨が隠蔽されていることであって、僕らは思わずノーコンセプトに見えるその風体を否定したくなる衝動を抑えつつ思考を働かせなくてはならない、これは大変な仕事だ!

こんな小難しいことを考えて頭を捻っていた。でも、ノーコンセプトの大多数はやっぱり消費文化の一員に過ぎないんじゃないかって思いなおしたら、何も悩む必要はなくなった。果たしてどちらが正解なのやら。

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